東京地方裁判所 昭和45年(レ)154号 判決 1971年11月19日
控訴人 飯野五七三
右訴訟代理人弁護士 岩田満夫
同 矢田久芳
被控訴人 塚越力造
右訴訟代理人弁護士 土生照子
主文
原判決を次のとおり変更する。控訴人は被控訴人に対し、被控訴人から金一三〇万円の支払を受けるのと引換に別紙物件目録記載の建物を明渡し、かつ昭和四五年三月一一日から右明渡済みまで一ヶ月金五〇〇〇円の割合による金員の支払をせよ。
被控訴人のその余の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審を通じてこれを四分し、その三を控訴人の、その余を被控訴人の負担とする。
事実
第一申立
(控訴人)
「原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求める。
(被控訴人)
「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求める。
第二主張
(被控訴人の請求原因および控訴人の主張に対する答弁)
一 被控訴人は、その所有にかかる別紙目録記載の建物(以下本件建物という。)を昭和二三年一二月控訴人に対し期間を三年と定めて賃貸した。
二 その後右賃貸借は期間の定めのないものとなったところ、被控訴人は昭和四二年一一月二八日控訴人に送達された本件訴状をもって右賃貸借契約を解約する旨の意思表示をなした。
三 右解約申入には次のとおり正当事由がある。
(一) 被控訴人が前記のとおり控訴人に本件建物を賃貸するに至ったのは、被控訴人が理容学校就学中の次男に理容店を開業させるため本件建物を建築し理容器具を備えたところ、控訴人から賃借方を懇請されたことによるものであり、このような経緯から結局被控訴人は控訴人に対し右次男の開業までの約束で、期間を一応三年間と定め、権利金、敷金を徴収することなく理容器具付の本件建物を賃貸した。ところが、その後次男は事情あって開業の予定を取り止め、三男章夫がこれに代ることになったので、被控訴人は控訴人に対しその旨を告げ、三男の開業上必要となったときは直ちに明渡してほしい旨申し入れたところ、控訴人はこれを了承した。
右章夫は昭和二八年東京公衆衛生技術学校を卒業して理容師の免許を取得し、同じ免許を有するシゲ子と結婚し、本件建物において開業する必要が生じたので、被控訴人は控訴人に対し明渡を求めたが、控訴人が明渡さないため本訴を提起したのである。そして、右章夫は他に勤務し毎日通勤していたが、胃潰瘍のため入院し手術を受けた結果回復せず、昭和四五年一二月死亡するに至り、現在では同人の妻シゲ子が本件建物で理容店を開業して章夫との間の子供を養育する必要にますます迫られている。
(二) 本件建物は戦後の簡易組立住宅で、土台もなく、屋根もルーフィング張りで、既に建物としては朽廃に達しており、また屋根の排水設備不完全のためその雨水のため本件建物に隣接している被控訴人所有家屋の壁が腐食している状態である。また、本件建物は昭和二八年一二月二三日と昭和三三年七月七日の二回にわたり火災を起したことがあり、火災の危険性が大きく、近隣の店舗はすべて新しくなっており、しかも駅前でもあるので、防災上からも本件建物を建て直す必要がある。しかも、被控訴人において本件建物を建て直して使用すれば、十分な効用を発揮することができるのである。
(三) 控訴人は、前記のとおり賃借にあたって権利金等を支払わなかったばかりでなく、一〇年以上も月額五〇〇〇円という低額の賃料で営業利益をあげてきたものである。
(四) 本件建物は、被控訴人の借地内にあり、同土地上には被控訴人所有の他の建物が存在するが、道路に面する建物は被控訴人の長男の使用している店舗と本件建物しかなく、借地内の他の建物で理容店を開業することは不可能である。
(五) さらに、被控訴人は正当事由を補強するため、昭和四四年九月一〇日の原審における口頭弁論期日に、控訴人に対し、本件建物明渡と同時に立退料として八〇万円を支払うことを申し出で、従来の無条件明渡の請求を右八〇万円と引換給付を求める趣旨に改めた。
(六) 控訴人の答弁および主張第二項(七)の事実は知らない。
四 よって、被控訴人が控訴人に対し、本件建物の賃貸借契約の終了に基づき金八〇万円の支払と引換にその明渡を求め、かつおそくとも昭和四五年三月一一日から右明渡済みに至るまで賃料相当の損害金として一ヶ月五〇〇〇円の割合による金員の支払を求めるのは正当であるから、本件控訴を棄却するよう求める。
(請求原因に対する控訴人の答弁および主張)
一 請求原因第一、二項の事実は認める。
二(一) 同第三項冒頭の主張は争う。被控訴人の解約申入は正当事由を欠いている。
(二) 同項(一)については、被控訴人の三男章夫が理容師の免許を取得し、シゲ子と結婚して子供を設けたが、その後死亡したことは認めるが、その余の事実は否認する。
(三) 同項(二)については、被控訴人主張のとおり火災が二度発生したことは認めるが、その余は否認する。本件建物の屋根はルーフィング葺であったが、雨漏りがするため控訴人においてトタン葺に修理しており、本件建物は十分使用に耐える状態であって、朽廃していない。また、二度の火災についても、一度は漏電によるもので控訴人の責任ではなく、もう一度は通行人の捨てた煙草の火が屋外の木屑に燃え移ったもので、どちらも小火であって、本件建物自体には火災の危険性はない。
(四) 同項(三)の事実は認める。
(五) 同項(四)については、本件建物が被控訴人の借地上にあり、同土地上に被控訴人所有の他の建物が存在することは認める。被控訴人は本件建物に隣接して住居、畳職のための店舗およびアパートを所有し、裕福に生活しているのである。
(六) 同項(五)の事実は認める。
(七) 控訴人は中野区鷺宮に借家して妻、長男、次女と共に居住し、本件建物においては長男と共同して理容業を営み、一ヶ月一二万円ないし一三万円の収入を得ているが、妻は高血圧で病気勝ちであり、次女は心身障害者であって病院に通っている状態で、その医療費等を支弁すると生活は苦しく貯えもない。また、被控訴人の申出にかかる八〇万円程度の立退料では、到底適当な移転先を求めることはできない。
三 同第四項については、賃料相当額が一ヶ月五〇〇〇円であることは認め、その余は争う。
第三立証≪省略≫
理由
一 被控訴人が控訴人に対し本件建物を賃貸したこと、その後右賃貸借が期間の定めのないものとなり、被控訴人が本件訴状をもって解約の意思表示をしたこと等請求原因第一、二項記載の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、被控訴人の解約申入につき、正当の事由の有無を検討する。
≪証拠省略≫によれば、次の事実を認めることができる。すなわち、
(一) 被控訴人は、昭和二二年頃次男に将来理容業を営ませる目的で本件建物を建築し、訴外並里に賃貸して理容店を開業させたが、同訴外人からは間もなく明渡を受け、昭和二三年一二月頃これを被告に対し理容器具等の設備付で賃貸することとなった。その際、被控訴人としては将来次男が開業できるようになったら明渡してほしいという希望を持っていたこともあって、敷金、権利金等は請求しなかった。
(二) その後、被控訴人の次男は理容師となることをやめ、三男の章夫が代わりに理容師を希望して昭和二八年頃その資格を取得し、一時本件建物で控訴人と共に働いたが、後に他に勤めるようになった。そして、章夫は昭和三九年に理容師の資格のあるシゲ子と結婚して、夫婦で理容師として他に勤務するようになった。被控訴人は、三男章夫が理容師の資格を取得した後昭和三二年頃から控訴人に対して本件建物の明渡を求めていたが、控訴人がこれに応じないでいるうちに、右のとおり三男章夫が結婚し、本件建物で開業したいという希望が強くなったので、本訴を提起するに至った。
(三) ところが、その後右章夫は健康を害し、昭和四四年四月頃から入院して手術を受けたが回復せず、翌四五年一二月死亡するに至り、現在は、妻シゲ子が従前から勤務していた江東区にある西製鋼という会社の理容室で同人の妹と共に働き、五万円ないし六万円の月収を得て、章夫との間の五才になる子供を養育している状態である。シゲ子親子は、本件建物に隣接した被控訴人所有の建物に居住しているが、通勤に時間がかかる上、出勤している間子供の世話をしてくれる人がいないので、シゲ子としては本件建物を建直して理容店を開業して子供を育てていきたいという希望をますます強く持つようになり、被控訴人も、シゲ子親子の将来のためにはこれを実現する以外にないと考えるようになった。
(四) 被控訴人は、本件建物の存する借地上にこれに隣接して三棟の建物を所有し、内一棟に居住していたが、昭和四五年八月頃次男が転勤して空いた都営住宅に移転し、右三棟の建物の内一棟には長男夫婦を居住させ、もう一棟はアパート用でこれにはシゲ子親子の他三名の賃借人を居住させ、残りの一棟は二名に賃貸している。
(五) なお本件建物は、被控訴人が戦災者用の簡易組立住宅材料の配給を受けて建築したものであるため、すでに土台や柱の下部その他が腐蝕し、著しく老朽化している。
以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
これに対し、控訴人側の事情を考えてみると、≪証拠省略≫によれば、次の事実を認めることができる。すなわち、
(一) 控訴人は、本件建物を賃借後、理容店の許可を得るため床面積を被控訴人の承諾を得て拡げ、その後屋根のルーフィングの上にトタン板をかぶせたり、腰板部分にトタン板を張ったり、窓をスチールサッシに改造したりして理容店を営業して来た。そして、開業後一七、八年を経て現在と同程度の顧客を得るようになったが、現在は長男と共に働いて一日八〇〇〇円から一万二〇〇〇円程度の売上があり、経費を差引いて一ヶ月約一二万円から一三万円の利益を得ている。一方、本件建物の賃料は、昭和三六年頃から一ヶ月五〇〇〇円である。
(二) 控訴人は他に借家して妻および子供三人と共に居住しているが、妻は脳溢血で倒れてその後通院加療中であり、次女は幼児の頃から脊椎カリエスを患い、現在でも通院加療を受けている状態である。
(三) 控訴人は、本件建物の明渡を請求されてから、他に賃貸店舗を探してみたが、本件建物と同程度の広さの店舗でも三〇〇万円位の敷金、権利金を要求されたため、移転することができなかった。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定の双方の事情を比較検討すると、被控訴人については、既に老朽化の著しい本件建物を取り毀して新店舗を建てこれを前記シゲ子に利用させることが合理的であり、かつそうすべき必要性が大きく、しかも控訴人からは元々敷金も権利金も受けず賃料も相当年数低れんのまま据置きこれを甘受していたものであって、控訴人に本件建物の明渡を求めるのは無理からぬ面もあるが、控訴人にも本件建物の継続使用を必要とする相当の理由があるので、本件訴状送達による解約申入時においては、未だその正当事由を具備したものと認めることはいささか困難といわざるを得ない。
三 しかしながら、本件の如く正当事由に基づく解約申入を前提とする家屋明渡訴訟の継続中は、家主の借家人に対する賃貸借解約の申入の意思表示が黙示的に継続されているものと解するのを相当とするところ、被控訴人が昭和四四年九月一〇日の原審口頭弁論期日に正当事由を補強するため、控訴人に対し八〇万円の立退料を提供したことは当事者間に争いがないから、右時点における解約申入について正当事由の有無を判断する。
結論から示すと、当裁判所は右立退料の金額が一三〇万円であれば正当事由が充足されるものと考える。なぜなら、本件建物の賃貸借は理容店の営業のためのものであって、住居としての使用のためではないのであるから、賃借人たる控訴人としては、営業上本件建物を継続使用すべき必要があるとはいいえても、長年同一場所で営業を継続して来たことにより取得された無形の経済的利益、いわゆる「のれん」を失うことに対し相当額の補償さえ得られれば、それ以上、この建物の賃貸借の継続を固執しなければならない必然的理由はないはずである。しかも、他方被控訴人がその明渡を求めるのにも相当の理由があることは先きに述べたとおりである。これらの事情を考量すると、控訴人としては、右の意味での補償金ないし代替店舗を確保して営業の再出発を計るための資金の一部に利用できる相当程度の立退料が被控訴人から提供されれば、これによってもなおかつ蒙る本件建物の明渡に伴う不利益は忍受すべきものとするのが本件借家紛争の公平妥当な解決策というべきである。ところで、右代替店舗を得るには前記のとおり相当高額の金員が必要であること、控訴人が本件建物を明渡し、被控訴人がそのあとを前認定のとおり利用することになると、控訴人は長年の労力により得られた顧客を失う反面、被控訴人の側ではこれを引継ぐ可能性が大きいこと等を考慮すると、被控訴人の提供した八〇万円ではなお低額にすぎ、前認定の諸事情その他諸般の事情を斟酌し、当裁判所は被控訴人から控訴人に一三〇万円が提供されることにより前記解約申入の正当事由は補強されてその存在を肯定しうるに至ると思料するものである。
そこで、このような場合裁判所が賃貸人たる当事者の申出額を越えた立退料を引換給付の対象とすることが許されるか否かにつき検討するに、この点については、賃貸人の立退料支払意思が提供ないしは申出の額を限度とするものであることが明らかなときはこれに上のせすることは許されないが、そうでないときは、賃貸人が借家人に立退を求めていることと正当事由の存在を立退料の提供ないし申出にかからせていることから推して立退料を申出額に準ずる相当額まで増額することができるものと解するのが相当である。けだし、賃貸人の立退料支払意思が申出額を限度とする趣旨であることが明らかであるときに裁判所がこれに増額して正当事由を肯定したり、そうでないときでも申出額に準ずる相当額を超えて大巾に増額させることは、引換給付の額をふやす面のみからみれば一部認容の形式であっても、正当事由の理由づけについて、賃貸人の意思ないし希望を超えて不足部分の補強に裁判所が積極的に協力することになり許されないと解されるが、他方賃貸人の申出額が上限の趣旨かどうか明らかでないときは、賃貸人としては、むしろ申出額を上限としているものではなく、もし申出額をもってしては正当事由が認められないときは、解約申入を正当化するために申出額にある程度上のせされてもなおかつこれに依拠して明渡を求める意向と解するのが賃貸人の合理的意思に合致すると解されるからである。
次に、裁判所が立退料を増額する場合、どの時点で正当事由が具備されることになるのかが問題となるが、立退料により正当事由を補強するにあたっては、必ずしも客観的に妥当な額の立退料の提供まで要求されるものではなく、先きに説示した賃貸人の意思解釈として、賃貸人にその申出額を超えて客観的妥当額を負担させることが賃貸人の立退料支払意思に牴触しないと推考しうる程度に近似する相当額が提供されれば十分であると解するのを相当とするので、当事者が右相当額を提供した時に正当事由が具備されるに至ると解すべきである。すなわち、裁判所が立退料を増額するにつき前記のような限定がなされる限り、増額が許される場合は右相当額の提供がなされているときであって、その提供の時に正当事由が具備され、右相当額の提供もなされていないときは、これを増額することにより正当事由の存在を肯定することは許されないことになるのである。
以上に従い本件について考えてみると、当裁判所は正当事由を肯定するに足りる立退料を一三〇万円と思料するものであるところ、被控訴人は八〇万円の立退料を提供しているので、限界線上の額ではあるが相当額の提供がなされたものと認めることができる。そして、本件においては被控訴人が右提供額を上限とする意思を有するとは認められないから、立退料の額を右一三〇万円とすることにより被控訴人の解約申入につき正当事由が存すると認め、控訴人の賃借権は昭和四五年三月一〇日の経過とともに終了したものとして、控訴人に対し右立退料と引換に本件建物の明渡を命ずることが許されるものというべきである。
四 以上によれば、被控訴人の請求は、控訴人に対し一三〇万円と引換に本件建物の明渡および昭和四五年三月一一日から明渡まで一ヶ月五〇〇〇円の割合による損害金の支払を求める限度で理由があることになる。
よって、原判決を変更し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条、第九二条を適用して主文のとおり判決する。(仮執行宣言は付さないこととする。)
(裁判長裁判官 倉田卓次 裁判官 奥平守男 相良朋紀)
<以下省略>